ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏

前書


こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進(じゃうしん)のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ

「春と修羅」無声慟哭より



「引業」とは、人間としての果報を生ずる力のことであるが、決して宿命ではない。

宮沢賢治氏の作品と出会ってから、すでに30余年が経過している。
少しでも、賢治氏の作品に隠されたメッセージを見つけ出してみたいと思いつつも、未だ達成できていない。
それでも、自分が歳を重ねた分だけ、おぼろげながらも、多少見えてきたような気がする。

ここは、まったくと言っていいほど専門的知識を持たない私が、感じたことを、そっと書き留めておくところ。
素人故の誤った解釈、勝手な思い込み等は、何卒ご容赦願いたい。


賢治氏の作品を読み込んでいくと、ある種の法則があることに気づく。
「生と死」 「光と影」 「天と地」 「進化と退行」 「有機と無機」 ・・・
全ての事象はこれらの間に存在し、抽象化されている。
例えるなら、そこは、原子と電子の隙間。
すぐそこの世界なのに、触れず、入り込むことのできない世界・・・
そして、そこから垣間見れるものは、「仏の心」と「四苦八苦」の世界。
賢治氏が見ていた幻想と現実の世界に少しでも近づければ、きっと私にも「仏の心」が見えてくるに違いない。
そう思いながら、今日に至っている。

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