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第一話一章 イメージ

「銀河鉄道」というと、松本零士氏の「銀河鉄道999」を思い浮かべる方も少なくない。
そして、このアニメ名からも推察できるように、これは、賢治氏の「銀河鉄道の夜」をモチーフに生み出されたもの。
これを知りつつ、あるいは、知らずして、賢治氏のこの作品を読んでも、自ずとある種のイメージが浮かび上がってくる。

煙突から煙を吐き、時には、汽笛を鳴らしながら、宇宙の銀河に沿って、走っている蒸気機関車。

宇宙は壮大、蒸気機関車は重装。
どうしても、イメージとして、限りなく重いものを抱かざるを得ない。


六、銀河ステーション

気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。
ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈のならんだ車室に、窓から外を見ながら座っていたのです。
車室の中は、青い天蚕絨を張った腰掛けが、まるでがら明きで、向うの鼠いろのワニスを塗った壁には、真鍮の大きなぼたんが二つ光っているのでした。

「銀河鉄道の夜」より






後ほど、触れるが、この作品は氏自身により、10年近くに渡り、何回も修正された作品である。
しかし、4回にわたる修正の中で、「銀河ステーション」のこの部分は、あまり修正されていない。
そして、ここに登場しているのが、「軽便鉄道」で、このモデルとなったのは「岩手軽便鉄道」である。

「軽便鉄道」とは、通常の規格より低水準で建設された鉄道のことをいう。
JR在来線のレール幅は、1067mmあるが、軽便鉄道に用いられたものは、762mm幅で、これは通常より遥かに狭く、通称ナローゲージと呼ばれている。
これは、当時、岩手軽便鉄道を走っていたもので、通称「コッペル機」と呼ばれているもの。
軌間が狭く、当然ながら、D51などのように大きくないし、重装なものではない。
どちらかというと、トロッコ電車に近いイメージである。

人力鉄道写真

これは、JR交通博物館(秋葉原)に展示されている「人車鉄道」である。
汽車などの代わりに人が客車を引くというものであったが、それでも軌間(レール幅)は610mmあった。
岩手軽便鉄道は、さすがに蒸気で駆動させるだけあり、ここまで短いものではなかったが、客車幅のイメージは、これに近いものであった。

さて、如何であろうか。。。
賢治氏が描いた宇宙を走り抜ける機関車と、現代の我々がイメージする物には、大きな隔たりがある。
同じ街でも、D51が走り抜けていくのと、小さなコッペル機が走り抜けていくのとでは、街全体のイメージも違ってくれば、事象そのものも捉える尺度は違ってくる。
また、賢治氏は、このコッペル機のみを見た訳ではない。
すでに、明治末期には、テンダー式蒸気機関車が輸入されおり、1914年(大正3年)からは、国産大型蒸気機関車の8620系が生産開始され、主要幹線には配置されていた。
1921年(大正10年)に初めて上京した氏は、これに乗車していたはずである。
また、かなり早い時期に目にしていたであろうし、氏の年譜から推測すれば、これに初めて乗車したのは、明治末期と推測される。

この物語の動く舞台に、敢えて「軽便鉄道」を選んだのは何故であろうか。
きっと、この物語を織り成すさまざまな場面での出来事は、賢治氏の傍を走り抜けていく身近な「軽便鉄道」と同じであったに違いない。

我々が考えているほど、「銀河鉄道の夜」に登場するさまざまな物(有機物・無機物)は、重く、壮大なものではない。
ごく身近にある出来事なのだ。

とは言うものの、リヤカーですらベンツ並みの扱いをされていた賢治氏の時代。
初めて、8620系やコッペル社の小型蒸気機関車を見た時の驚きや感動は、我々が初めて目の前でSLやジャンボ機を見たとき同じだったに違いない。

物語には、それを書かれた時代というものが存在する。
そして、完成した物語というのは、時代とともに、映し出す背景やイメージが変遷していく。
ジョバンニとカンパネルラを乗せた軽便鉄道が走り抜ける町並みは、時間軸とともに移動している。
しかし、いつの時代になっても、常に名作であることには変わりない。


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