ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第一話一章2 選択と差替

東北本線の「一関〜盛岡」間が開通したのは、明治23年11月。
そして、翌年9月には「上野〜青森」間が全線開通している。
賢治氏は、明治42年4月に、県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学し、寄宿舎に入っており、この学校の目と鼻の先には、この路線が通っていた。
これに対し、岩手軽便鉄道が創設されたのは明治44年10月で、「花巻〜仙人峠」間が全線開通したのは、大正4年7月のことであった。
また、8620系の最高時速は120キロだったのに対し、コッペル機は20キロしか出なかった。


三、家 (最終形)

(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。
そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまはって、前の方へ来た。)


三、家 (第一次稿)

(ぼくは まるで軽便鉄道の機関車だ。ここは勾配だからこんなに速い 。ぼくはいまその電燈を通り越す。 しゅっしゅっ。 そら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまはって、前の方へ来た。)

「銀河鉄道の夜」より



最初の原稿から「まるで軽便鉄道の」「こんなに」「しゅっしゅつ」が削除されている。
一方、最終形では機関車に「りっぱな」、速いには「こんなに」という形容詞が追加されている。
更に、「速い」は「速い」、「そら」は「そら」という言葉に置き換えられている。
一瞬、最終形では、コッペル機が8620系に置き換えられたように錯覚してしまうのだが、第一章で述べたように、「六、銀河ステーション」に登場しているは、軽便鉄道のままである。

賢治氏が盛岡中学校を受験、ないし入学、あるいは、中学4年(明治45年)の時、仙台方面へ修学旅行する際に、東北本線を利用していたことは推測がつく。
また、この中学の寮生活時代には、目の前を走り去る蒸気機関車を、毎日のように見ていたはずである。
賢治氏の実家は、資産家であったため、岩手軽便鉄道の設立にもかかわっている。
このことから、親しみをもって、軽便鉄道にしたとも捉えられなくないのだが、私個人としては、主役たちを乗せて走る機関車は、どちらを選択ではなく、東北本線を走っていた8620系を否定したかったのではないかと推測する。
何故ならば、四次空間、あるいは、死後の世界を旅したジョバンニが再び現世へと戻ってくるからである。
大正10年に無断で上京していた賢治氏は、8月に妹トシ氏の病気の報を受けて、再び、東北本線を利用して帰郷している。
郷里に向かう汽車の中で、賢治氏は何を考えていたのであろうか。
そして、心の中で仏様に祈っていたに違いない。
トシ氏は翌年11月に逝去。
ジョバンニを現世へと戻したかった賢治氏は、敢て8620系を選択しなかった所以は、ここあるのではないのだろうか。

岩手軽便鉄道の終着駅である遠野は「遠野物語」の古里である。
柳田国男氏に遠野の物語を語ったのは、佐々木喜善氏であり、賢治氏はこの語り部とも親交があったという。
故に、この軽便鉄道に乗車する時の氏は、とても楽しいものだったに違いない。
春と修羅第二集には「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」、「岩手軽便鉄道の一月」があり、七月の中には「わが親愛なる布佐機関手が運転する」という一節もある。
軽便鉄道を「りっぱ」で「速い」と表現したのは、決して、スピードのことではなかったのである。
楽しかった想い出を沢山詰め込んで、銀河を馳せめぐるのは、軽便鉄道でなくてはならなかったのである。

ただ、この沢山の楽しい想い出は、物語の中で、やがて、「四苦八苦」「業」「運命」として進められていくこととなるのだが。。。


第一話一章へ戻ります  コンテツメニューへ  第一話二章へ進みます


indexページへ戻ります トップページへ戻る  ページ最上部へスクロールします ページのトップへ