北上川と賢治氏は密接な関係にある。
幼少時の氏が、この北上川を小船で渡って叱られたという記録もあるようだ。
詩集や童話に、「北上川」と題したものがあってもおかしくないのだが、春と修羅第二集の中に「北上川は螢気をながしィ」と登場している他は、何故か殆ど見受けられない。
そして、「イギリス海岸」では、心情的な北上川というよりも、地質学的な側面が強い。
ただし、短歌には、数多く詠っていることから、かなり近親間を抱いていたものと思われる。
ここに賢治氏の住居にかかわる年譜を記した上で、この居住地を示してみることとする。
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岩手県稗貫郡里川口村川口町(現花巻市豊沢町)に生まれる
(明治29年8月)
県立盛岡中学校(盛岡第一高等学校)に入学し寄宿舎に入る
(明治24年4月)
羅須地人協会設立
(大正15年8月)
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如何であろうか。
賢治氏は、生誕から、その短い生涯を閉じるまでの間、ずっと、北上川とともに過ごしているのである。
多くの河川がそうであったように、北上川もまた子供達の水難事故が絶えないところであった。
良家の長男として生まれた氏の両親が、勝手に北上川に行かないように、気に止めていたことは、容易に察しが付く。
氏も、幼少時には、北上川に対し、恐怖とか、畏敬を感じていたに違いない。
そして、多くの子供がそうであるように、やがては、これに反抗して大人になろうとし、一人で対岸まで小船で渡ってしまったのであろう。
そんな氏もやがて自らが農民となり、下の畑で農作物や花々を栽培するようになる。
作物の出来不出来を左右するのは、自然現象。
特に、冷害・日照り・水害などは、生命維持活動そのものを左右するものであった。
きっと、畑を耕す合間をみては、すぐ横に流れる北上川を覘いていたに違いない。
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