ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第一話二章 北上川 (キーワード)

人間には必ず原体験がある。
では、銀河の中を鉄道が走るという賢治氏の発想はどこから生まれたものなのであろうか。
そして、それはいつのことであったのであろうか。


イギリス海岸」より

夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。
東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。



北上川と賢治氏は密接な関係にある。
幼少時の氏が、この北上川を小船で渡って叱られたという記録もあるようだ。
詩集や童話に、「北上川」と題したものがあってもおかしくないのだが、春と修羅第二集の中に「北上川は螢気をながしィ」と登場している他は、何故か殆ど見受けられない。
そして、「イギリス海岸」では、心情的な北上川というよりも、地質学的な側面が強い。
ただし、短歌には、数多く詠っていることから、かなり近親間を抱いていたものと思われる。

ここに賢治氏の住居にかかわる年譜を記した上で、この居住地を示してみることとする。


生家近辺概要図

岩手県稗貫郡里川口村川口町(現花巻市豊沢町)に生まれる
(明治29年8月)


盛岡中学校近辺概要図

県立盛岡中学校(盛岡第一高等学校)に入学し寄宿舎に入る
(明治24年4月)


下の畑近辺概要図

羅須地人協会設立
(大正15年8月)

如何であろうか。
賢治氏は、生誕から、その短い生涯を閉じるまでの間、ずっと、北上川とともに過ごしているのである。

多くの河川がそうであったように、北上川もまた子供達の水難事故が絶えないところであった。
良家の長男として生まれた氏の両親が、勝手に北上川に行かないように、気に止めていたことは、容易に察しが付く。
氏も、幼少時には、北上川に対し、恐怖とか、畏敬を感じていたに違いない。
そして、多くの子供がそうであるように、やがては、これに反抗して大人になろうとし、一人で対岸まで小船で渡ってしまったのであろう。

そんな氏もやがて自らが農民となり、下の畑で農作物や花々を栽培するようになる。
作物の出来不出来を左右するのは、自然現象。
特に、冷害・日照り・水害などは、生命維持活動そのものを左右するものであった。
きっと、畑を耕す合間をみては、すぐ横に流れる北上川を覘いていたに違いない。


第一話一章2へ戻ります  コンテツメニューへ  第一話三章へ進みます


indexページへ戻ります トップページへ戻る  ページ最上部へスクロールします ページのトップへ