賢治氏は「春と修羅」無声慟哭の中で、「おまへはその巨きな木星のうへに居るのか」と、トシ氏に話しかけている。
木星が太陽系の惑星であり、ここが死後の世界でないことは、氏も十分理解していたため、これは、あくまでも神話などに基づき、心情的に表現したものと解釈できる。
天気輪の丘から汽車に乗り込んだジョバンニは、まもなく二重星である「アルビレオ」に到着する。
そして、最終点の「南十字座」に到着する直前、同じ二重星の「リギル・ケンタウルス」こ到達する。
木星にいるはずがないトシ氏は、銀河系で最も明るく大きな「オメガ星雲」か、太陽に最も近い別の恒星である「リギル・ケンタウルス」にいるやもしれない。
このように考えたのではないのだろうか。
つまり、「ケンタウルス座」は、最終的な死の確定であり、天上でもある南十字の手前に位置する最終的な現世の延長線上の終着地点。
現世で魂となった者たちは、ここで、天上へと導かれるのを待っている。。。
「ケンタウル座」は、日本からだと、地平線から覘いた上半身しか見えない。
下半身である馬にあたる部分は、南半球へとかかっており、更に、その下に位置するのが、南十字座。
死者の魂を弔いながらも、常に、現世へと戻したいという中途半端な位置として、賢治氏が祭りの主人公に選んだのが、「ケンタウルス座」なのであろう。
川に烏瓜の燈火を流すことで、死者の霊・魂を弔い、「ああそこにはクリスマストリイのようにまっ青な唐檜かもみの木がたってその中にはたくさんのたくさんの豆電燈がまるで千の蛍でも集ったようについていました。」と表現することにより、キリストの復活祭としての意味合いを持たせている。
更に、「ケンタウル露をふらせ。」としていることから、五穀豊穣を願う旧暦の七夕としての性格をも打ち出しているのである。
現世の人々の幸せを願いつつ、死者となった過去の人の魂を弔う気持ちと、キリストのように非科学的(原時点での比喩である。)ながらも、復活してほしいという思いが交差しているように思えてならない。
「南半球と北半球」、「現世と霊界」、「現在と過去」。
「ケンタウル祭」は、この中間に位置するお祭りなのである。
尚、最近の研究では、「オメガ星団」が、銀河系形成のカギを握っていることが明らかになってきている。
銀河、あるいは、宇宙の始まりは、この「オメガ星団」であるかもしれないのだ。
賢治氏は、この物語を書いた大正年間には、すでに、このことを予測していたのであろうか。。。
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