大正13年、「春と修羅』」を賢治氏が自費出版する時、その印刷を花巻の「大正活版所」に依頼したが、この印刷所は、盛岡の「山口活版所」支店であった。
ここは、あまり設備が整っておらず、足りない活字を盛岡の「山口活版所」に取りに行くため、賢治氏は何回も足を運んでいる。
また、盛岡高等農林学校時代、校友会誌の印刷のため、何度もここを訪れていたという話もあるようだ。
(賢治氏の遺言による「国譯妙法蓮華経」一千部の印刷はここで行われた。)
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昭和6年、東北砕石工場技師であった賢治氏は、石灰肥料の荷札の製作を川口荷札株式会社に依頼している。 |