ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第二話十一章 活版所
ジョバンニは、学校が終わった後、真っ直ぐ帰宅せず、活版所へと立ち寄り、一仕事を終えた後、牛乳屋へと向かう。


二、活版所

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中にはまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりランプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。
ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。

「銀河鉄道の夜」より



印刷所1印刷所2
印刷所3印刷所4


これは、大正9年刊行の「盛岡市街府瞰図絵」に、当時、現存した印刷所を示してみたものである。
この内、「洲脇印刷所」については資料を見つけることができなかったのであるが、現存する「山口活版所」(現:山口北州印刷)と「川口荷札株式会社」(現:川口工業印刷株式会社)については、賢治氏と大きな接点がある。


山口活版所
(現:山口北州印刷
川口荷札株式会社
(現:川口工業印刷株式会社
創業 明治26年10月
(昭和47年、本社・工場を現住所地へ新築移転)
創業 明治37年10月
(大正9年、日影門外小路(本町通)に移転)
大正13年、「春と修羅』」を賢治氏が自費出版する時、その印刷を花巻の「大正活版所」に依頼したが、この印刷所は、盛岡の「山口活版所」支店であった。
ここは、あまり設備が整っておらず、足りない活字を盛岡の「山口活版所」に取りに行くため、賢治氏は何回も足を運んでいる。
また、盛岡高等農林学校時代、校友会誌の印刷のため、何度もここを訪れていたという話もあるようだ。
(賢治氏の遺言による「国譯妙法蓮華経」一千部の印刷はここで行われた。)
昭和6年、東北砕石工場技師であった賢治氏は、石灰肥料の荷札の製作を川口荷札株式会社に依頼している。


この物語の最終稿は、昭和6〜7年頃にかけて成立したと言われているが、昭和8年、まさに自身が死を迎えようとしていた数ヶ月前、盛岡高等農林学校時代に手がけていた同人誌「アザリア」の一人でもある河本義行(緑石)氏が7月18日に、水泳訓練中の溺れかけていた同僚を助けた後、溺死するという一報を受けた。
これを聞いた賢治氏は、この物語をカンパネルラの死という形に書き直したという説(小沢俊郎氏による)もある。
しかし、賢治氏が亡くなったのは、9月21日であり、この間、わずか2ヶ月しかない。
これだけの短期間に、ジョバンニを丘に向かわせた物語に全てを変遷させたとは考えにくいものの、何らかの手が加えられたことは確かなのであろう。

こうなると、最初稿には登場していない活版所は、どちら(山口活版所 or 川口荷札)なのかということと、ジョバンニの死は、明治43年に亡くなった藤原健次郎氏、あるいは、河本義行氏のどちらであろうかという疑問が湧いてくる。
つまり、賢治氏は、昭和8年の盛岡市を舞台に、この最終稿を書き進めたのか、あるいは、明治43年の盛岡市を舞台に、この物語を描いたのか、ということである。
もしも、前者であれば、東北砕石工場技師時代の「川口荷札」ということになるであろうし、後者であれば、「山口活版所」だと、ある程度確定できるということになるのであるが。。。

そして、「家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処」という表現から、学校の場所も推測がつきそうなものなのであるが、様々な矛盾点が登場してくることになるのである。

尚、「岩手県の百年」(山川出版)によると、当時、盛岡市内には、渋谷活版所(明治26年創業)、岡本活版所(明治創業年不明)、岩手活版所(明治39年創業)、富士屋印刷所(明治28年創業)があったと記されているが、富士屋印刷を除いて現存しているところはなく、その所在地も盛岡南インター付近であり、また、賢治氏関係の資料からも、これらの活版所の名前は今のところ見出せていないため、上記2箇所に絞っても差し支えないと判断する。


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