ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第二話十二章 活版所2
ジョバンニが立ち寄った活版所は「山口活版所」と「川口荷札株式会社」のいずれかという可能性が高い。
そこで、これを絞りこめるだけのものはあるのであろうか。

四、ケンタウル祭の夜

(あゝ、もしぼくがいまのやうに、朝暗いふちから二時間も新聞を折ってまはしにあるいたり、学校から帰ってからまで、活版処へ行って活字をひろったりしないでもいいやうなら、学校でも前のやうにもっとおもしろくて、人馬だって球投げだって、誰にも負けないで、一生けん命やれたんだ。それがもういまは、誰もぼくとあそばない。ぼくはたったひとりになってしまった。)

「銀河鉄道の夜」最初稿より


一、午后の授業

それどこでなくカムパネルラは、その雑誌を読むと、すぐお父さんの書斎から巨きな本をもってきて、ぎんがというところをひろげ、まっ黒な頁いっぱいに白い点々のある美しい写真を二人でいつまでも見たのでした。それをカムパネルラが忘れる筈もなかったのに、すぐに返事をしなかったのは、このごろぼくが、朝にも午后にも仕事がつらく、学校に出てももうみんなともはきはき遊ばず、カムパネルラともあんまり物を云わないようになったので、カムパネルラがそれを知って気の毒がってわざと返事をしなかったのだ、そう考えるとたまらないほど、じぶんもカムパネルラもあわれなような気がするのでした。

「銀河鉄道の夜」最終稿より



ジョバンニは、学校が終わった後の活版所だけでなく、早朝も働いていたことがわかり、これは、最終稿では新聞配達という具体的なものが削除されたものの、朝と午後で、2箇所働いていたことには変わりない。
川口工業印刷株式会社(旧:川口荷札株式会社)のホームページには、以下のような記載がみられる。


理由は他にもある。主婦たちが内職として「荷札の針金付け」に励み、小学生が一日10銭で小遣い稼ぎに精を出した。
盛岡の人々と手を携えて作り出された地場産業、山口県出身の歳弘が舵をとる川口荷札の名声はこうして築かれた。

川口工業印刷株式会社 「舵とる人びと」より引用



当時、川口荷札は「仁王小学校」「櫻城小学校」などとタイアップし、荷札の製造過程の学習過程を設けてたというのである。
これは今でいう職業体験みたいなものであろう。
また、当時、川口荷札では化粧荷札を考案し、東洋一の規模を誇っていたいたという。
つまり、「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」という印字を拾う作業は、ここで行われていたものを模写したのではなく、必然的に「山口活版所」ということになる。


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