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第二話十三章 パン屋

二、活版所

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

「銀河鉄道の夜」より



賢治氏が、この物語を明治43年の盛岡市を舞台にしたものなのか、あるいは昭和6〜8年頃のものにしたのかは、現段階では判断できない。
そして、この物語には「パン屋」と「時計屋」が登場する。

賢治氏が中学3年であった明治43年8月、中津川が台風のため氾濫し、盛岡市は甚大な被害を受けている。
そして、翌月9月、同室の親友藤原健次郎氏の死に直面。
更に、中学4年であった明治45年、東北地方は大凶作に見舞われている。

このような情勢の中、盛岡市内にパン屋が実在するはずもなく、キリスト教的なものから、パン屋は教会をイメージして設定したものと考えていたのであるが、盛岡市内にパン屋は実在していたのである。
以下のイラストは、第十二章のものに、その店を追加してみたものである。


パン屋1パン屋2
パン屋3パン屋4


このパン屋さんは、「 横澤パン」で、創業は昭和2年である。
創業以来、機械を使用せずに、ずっと手こねでの製造を続けており、この店のポリシーは「私達はパンのミミを残すヒトは嫌いだ」とのことである。
そして、このお店は、賢治氏が下宿していた教浄寺の目と鼻の先にあったのである。
場所といい、ポリシーといい、賢治氏とイメージが重なるものも多い。

この店の創業からいって、賢治氏が学生時代にこのパンを食べたということはないのだが、以外とハイカラであったことや、菜食主義だったことからも、盛岡を訪れた際には、ここで購入していたのではないかという可能性が出てくる。
そして、このことから、親友であった藤原健次郎氏、あるいは同人誌「アザリア」の一人である河本義行氏を結びつける明治43年、ないし、大正6年を再現させるべく、この時の街並みを再現しながらも、昭和8年まで、何度も足を運んだ街並みをも取り入れて、盛岡の街並みを再現していたのではないかという推測が成り立つのである。

尚、幼いジョバンニにとって、パン屋とは、きっと夢のあるとても魅力的なものであったに違いないと感じるのであるが、「美味しそうなにおいがした」とか「綺麗にパンが並べられていた」という表現はなく、単に、立ち寄って、パンと角砂糖を購入しただけなのである。
こうなると、パンを製造販売していたところではなく、今の菓子店や食料品店のようなものを指しているのかもしれないという推測も成り立つのである。


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