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第二話十五章 電気会社
時計屋を後にして、進んでいくジョバンニのは、、電気会社の前の6本のプラタナスを目にすることになる。

四、ケンタウル祭の夜

それから俄かにお母さんの牛乳のことを思いだしてジョバンニはその店をはなれました。そしてきゅうくつな上着の肩を気にしながらそれでもわざと胸を張って大きく手を振って町を通って行きました。
空気は澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。

「銀河鉄道の夜」より



「東北電力」となったのは昭和26年5月1日のことであるが、その前身は「盛岡電気株式会社」で、明治37年7月、前盛岡市長であった清岡等氏が社長に就任し、設立されたものである。
翌37年には宇津野発電所(水力発電)が着工され、明治38年9月に運転が開始された。
これにより、岩手県内で最初に、盛岡市内に電気が供給されることになった。
しかし、発電量も少なく、電気料金もかなり高額だったため、提供されたのは、肴町、内丸、紺屋町、大沢川原付近の民家77戸、434灯のみであった。
(尚、花巻に電灯が灯されたのは明治45年になってからのことである。)

大正9年刊行「盛岡市街府瞰図絵」より電力会社を拡大

(現在の地図は こちら からご覧いただけます。)

さて、如何であろうか。
中津川を越えた地域については、鳥瞰から平面図へと略されているめ、残念ながら、実際にポプラの木が実在したかどうかは、描かれていないものの、ジョバンニが現世で辿った場所を検証してみると、明らかに現存したところということがお分かりいただけたと思う。

当時の盛岡市内には工場もあったが、電気を扱っていたところは、「盛岡電気株式会社」だけであり、これを明確に「電気会社」と表現していることからも、この街並みは、盛岡駅前だけでなく、中津川を越えた地域をも含んでいたことになる。
この近辺について、賢治氏との接点はあまりないようにも感じるのであるが、実は、賢治氏お気に入りの場所でもあったのだ。

劇場1劇場2

現在の盛岡劇場の様子は、「395の落書き帳」さまからご覧いただけます。

「山口活版所」へと活字を取りに花巻から出向いてきた主は、「盛岡劇場」に足繁く通い、芝居見物を楽しんでいたというのだ。
更に、終電車には間に合わず、36kmも離れた花巻まで、歩いて帰っていたという。

ところが、心象スケッチ「春と修羅」を賢治が出版したのは、大正13年4月のことである。
上のものは大正9年のもののため、本来であれば、これを大正13年のものと比較してみたいところなのであるが、残念ながら手元にあるのは昭和22年に刊行された「新生盛岡市地図と案内」である。


昭和3年の同場所2


これによると、「盛岡劇場」も残っていたものの、「電気会社」と表示されていたものが「配電会社」となっており、新たに「東北電気支社」というところが、表示されていたのである。
更に、この「配電会社」の斜め上には「国民劇場」、盛岡駅前の大通りには、「中央劇場」「鈴木電業」というものも示されている。

こうなると、確信をもって、ポプラの木が6本立っていた「電気会社」が、現在の「東北電力」の場所であるという確証は再び振り出しに戻ってしまうことになるのであるが、上記地図は敗戦後の復興時期のものでもある上、「東北電気支社」となっているので、やはり、賢治氏の時代とは違うものであろう。


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