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第二話二章 小岩井農場と盛岡

賢治氏がこの物語の構成を練るにあたっては、きっと、小岩井農場を思い浮かべながら「天気輪の丘」を設定したに違いないとは感じるのであるが。。。


五、天気輪の柱

町の灯は、暗の中をまるで海の底のお宮のけしきのようにともり、子供らの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えて来るのでした。風が遠くで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、ジョバンニの汗でぬれたシャツもつめたく冷されました。ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました。
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。

「銀河鉄道の夜」より



小岩井農場への玄関口となる「小岩井駅」が開業したのは、大正11年6月26日のことである。
この路線は、大曲・盛岡間を結ぶ田沢湖線(秋田新幹線)と呼ばれているが、当時は、橋場軽便線(盛岡〜橋場)、生保内軽便線(大曲〜田沢湖)と呼ばれており、盛岡駅と小岩井駅は約10kmほど離れている。
そこで、小岩井農場を天気輪の輪がある場所と過程して考察してみると、以下のような結論に達するのである。

1.天気輪の輪が登場する場面は、最終稿で加筆されたものであり、小岩井農場からも高所に上がれば通り過ぎる汽車は眺められたであろうが、草地から直接眺められるものではないと推測される。

2.当時の小岩井駅は、まだ開発が進んでおらず、街(盛岡)まで2時間以上も歩かなければ到達できない上、小岩井農場から街の灯りを眼下に見渡すのは困難である。

3.小岩井農場の近くに雫石川が流れているが、当時は御所湖(昭和55年完成)もなく、かなりの渓流であり、小船を浮かべて烏瓜の燈火を流せるような河川ではなかったこと。

4.小岩井農場からは、岩手山の全容が一望できる。このため、氏がこよなく愛した山が、天気輪の輪にまったく登場しないというのは不自然である。
(場所を特定されることを予測し、意図的に山が見えることを文章にしなかったとは、氏の純粋さからも考えにくい。)



私が小岩井農場を訪れた時は生憎の雨で、岩手山の裾野しか拝むことはできなかったが、天候がよければ、その壮大な全容は大きく迫ってきたに違いない。

では、この物語は、いったいどこをモデルとして作られたものにのであろうか。
初心に帰るではないが、これを解明する鍵は、とても身近なところにあったのである。


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