これが、推測される相関図であるが、賢治氏が寄宿した自彊寮は、校舎と渡り廊下で繋がっていたようである。
授業が終わり、校門を出て行ったジョバンニは、町を三つ曲ったところにある活版所で仕事をした後、パン屋に寄り、裏町の小さな家に帰る。
このため、学校と家との位置関係が推測できかねるのだが、再び校舎と繋がっているところへ帰ってきた表現ではないように感じる。
どちらかというと、裏町という表現からも、新舎監排斥運動で退寮を命じられた氏が下宿した清養院(曹洞宗)が自宅という可能性の方が高いのではないかと推測する。
尚、何故、「舟っこ流し」が行われる旧暦の8月16日ではなく、8月6日を日時に設定したのであろうかという疑問がわいてくるのであが、盆行事は「死者の霊を弔う」という意味合いが強く、二度と会うことはないのである(唯物論的解釈)が、七夕には「再びめぐり合う」というイメージがあるからではないかと考察できるのである。
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