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第二話三章 盛岡市(賢治氏と藤原健次郎氏と石川啄木氏)

賢治氏が中学2年であった明治43年9月、賢治氏は、寄宿舎で同室の親友であった藤原健次郎氏の病死に直面する。
そして、明治45年、東北地方は大凶作に見舞われる。
賢治氏の実家は、地元でもかなり裕福であり、その小作人たちの死とかも目の当たりにしていたに違いない。
更に、大正11年11月には、妹トシ氏の病死。

「銀河鉄道の夜」は、亡くなった妹トシ氏や藤原健次郎氏、あるいは、自分が直面した様々な人々の死に対してのレクイエムでもある。
(カンパネルラは、トシ氏もしくは藤原健次郎氏だとする考察は多い。)
また、氏が今までに書き綴ってきた様々な童話や短歌・詩が、この物語には登場している。
つまり、「銀河鉄道の夜」は、レクイエムであると同時に、氏の自叙伝でもあるのだ。

賢治氏は、中学時代に健次郎氏の案内で南昌山を何回も散策し、この山を舞台とした作品も多く残している。
そして、賢治氏がたぶん見たであろう盛岡の「舟っこ流し」。(第三章に掲載)
きっと、これは同室の健次郎氏と見ていたに違いない。
あるいは、当日の天候が悪く、星空が眺められなかったとしても、きっと、故人を偲んで、その後に眺めていたであろう。

このように考えると、賢治氏がこの物語を再現したかった現世というのは、中学生時代に藤原健次郎氏と過ごした盛岡ではないだろうかという推測が成り立つ。
賢治氏が初稿を構想した時、きっと、カンパネルラは藤原健次郎氏であったに違いない。

今まで、さまざまな角度から、天体と時刻の一致を検証してきたが、第5章で述べたとおり、川の流れと銀河の向きが一致し、川の上流から下流にかけて、映し出された銀河を眺められる場所が、この盛岡市なのである。
そこで、 天体と物語の中の時刻が一致した大正7年8月6日の天体図と、船っこ流しが行われる夕顔瀬橋付近の地図を重ね合わせてみる。
尚、時刻については、カンパネルラが45分経過したと宣告される23時とした。


盛岡第一高等学校近辺で銀河が映し出される最上川

天体と川の一致図(第五章より再掲) つるちゃんのプラネタリウム使用

如何であろうか。
この日の時刻と「船っこ流し」が行われた夕顔瀬橋近辺の北上川の向きは、ものの見事に一致しているのである。
つまり、物語に登場する街は、盛岡駅近辺であり、橋は夕顔瀬橋ないし開運橋という可能性が高いことになる。
すると、この近辺には、小高い丘があり、街の灯りみが見渡せて、過ぎ行く汽車が眺められる場所が存在するということになる。
盛岡駅近辺には、愛宕山を始め、森山・二ツ森山・岩山・天狗森・沢口山等、標高300mにも満たないいわゆる里山と呼ばれる多くの山がある。
これらの山が天気輪の輪がある場所である可能性もあるが、物語の中では、はっきりと「黒い丘」だと書かれている。
つまりは、「山」ではないことがわかる。
盛岡市には、石川啄木氏がこよなく愛していた「天満宮」があり、これは小高い丘の上に位置する。
今では、宅地の造成が進み、斜面には大型マンションが建っているが、当時は、かなり見晴らしが良い上、静かな場所だたに違いない。
この「天満宮」は、北上川からわずか2kmほどの場所に位置する。

賢治氏と石川啄木氏の関係については、ここでは触れないが、二方とも同じ中学校の出身であり、啄木氏が愛した「天満宮」を、賢治氏が訪れていたという可能性は、非常に高い。
こうなると、ある程度、物語に登場する場所と実際の場所との相関というものが推測できる。


日時 大正7年8月6日
学校 盛岡第一高等学校
自宅 自彊寮ないし清養院
盛岡駅近辺
天満宮


これが、推測される相関図であるが、賢治氏が寄宿した自彊寮は、校舎と渡り廊下で繋がっていたようである。
授業が終わり、校門を出て行ったジョバンニは、町を三つ曲ったところにある活版所で仕事をした後、パン屋に寄り、裏町の小さな家に帰る。
このため、学校と家との位置関係が推測できかねるのだが、再び校舎と繋がっているところへ帰ってきた表現ではないように感じる。
どちらかというと、裏町という表現からも、新舎監排斥運動で退寮を命じられた氏が下宿した清養院(曹洞宗)が自宅という可能性の方が高いのではないかと推測する。

尚、何故、「舟っこ流し」が行われる旧暦の8月16日ではなく、8月6日を日時に設定したのであろうかという疑問がわいてくるのであが、盆行事は「死者の霊を弔う」という意味合いが強く、二度と会うことはないのである(唯物論的解釈)が、七夕には「再びめぐり合う」というイメージがあるからではないかと考察できるのである。


盛岡市概略図


賢治氏の作品は奥が深く、リンゴに例えれば、私が齧ったのは皮の一部にすぎない。
それでも、ある程度の考察(確証はない)が成り立ったことを考えると、すでに、場所を確定されている方がおられるのではという疑問から調べてみたところ、同様のことを考察し出版されている方がおられた。
著者の高橋じゅん氏は、盛岡市の「北山」の北端が「天気輪の丘」、家は「清養院」だと仮説を立てている。
私はここを訪れたことはないのだが、もしかしたら、北山ないし清養院には、天気輪があるのかもしれない。

「ジョバンニの街探し」
(眺発行 420円)



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