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第一話五章 天の川 (キーワード)

川面に映し出される銀河の世界。
都会では、銀河を眺めることさえ不可能なことなのだが、賢治氏は、これをいつ眺めたのであろうか。



銀の夜をそらぞらしくもながれたる北上川のみをつくしたち

銀の夜を虚空のごとくながれたる北上川の遠きいざり火

銀の空に北上川にあたふたとあらはれ燃ゆるあやしき火あり

「北上川第一夜」より (大正8年8月以降)



「銀河鉄道の夜」のジョバンニの切符や、短歌にも詠っているとおり、北上川に映し出される銀河を賢治氏は眺めていたことになる。
そして、その光景は、断片的に映し出されたものではなく、北上川に沿って、どこまでも続く銀河であったに違いない。
ここで、本当に賢治氏が、この光景を見れた環境であったかどうか、検証してみる。
すなわち、当時の天体図と川の地形を重ねてみようという試みである。


この検証にあたっては、「つるちゃんのプラネタリウム」を使用しました。
その表示画像の公開を含めて、提供元であるつるちゃんには、この場をお借りして、厚く御礼申し上げます。
このソフトは、正規版2000円の他、フリー版も公開されていますので、興味ある方は、是非利用されてください。

つるちゃんのプラネタリウム



日付けついては、大正11年8月7日という旧暦による七夕の日を設定したが、これは、同年に最初稿が成立した説を用いたことと、13年に成立したとすれば、それより以前に銀河に映し出される川面を眺めていたであろうと推測したことによる。
また、盛岡第一高等学校時代は、同校に入学した明治42年の8月16日、下の畑については、羅須地人協会を設立した昭和元年に設定してある。

旧盆、あるいは地域により、8月12日を旧暦の七夕としているところもあるが、この5日ほどのずれによる天体の動きは目で確認できるものではないため、両日のものは比較掲載していない。
また、時間については、こと座のベガが最も天頂に近づく時間帯を設定した。

紙面の都合上、このソフトの天体表示部分のみを切り出したが、ソフトの表示画面には、当日の月入出等が表示されているため、各画像は、この元表示画面へサムネイル設定してある。





地図の表示位置をずらすと、北上川においても、ほぼ平行となった銀河が映し出されるはずであるが、賢治氏の生家の周りには、小川があり、もし、この小川が幼少時にも存在したものであれば、北上川まで足を運ばなくとも、この小川にも映し出されたかもしれない



銀河と北上川2

「舟っこ流し」が行われたのは8月16日である。
賢治氏が盛岡第一高等学校に入学した明治42年に設定したところ、銀河と北上川がものの見事に一致した上、月も出現していない。
この時間は、かなり鮮明に川面一面に銀河が映し出されていたと推定される。




イギリス海岸から先は、川が西へと蛇行していくため、川面は遠くまで見渡せない。
この時期に、銀河と北上川の方向が一致することはないのだが、見渡せる限りの川面へと映し出されていた可能性や、北上川と合流するヶ石川とは一致しているため、この合流地点を含めて、さらに広範囲へと映し出されていたのかもしれない。
更に、日没直後で銀河が観測可能となる時間帯であれば、東寄りに平行して位置するため、対岸へ渡れば、映し出されたものを眺められたのではないかもと推定できる。




下の畑から歩いて、10mほどで、北上川に到達できる。
ここへと移り住んだ大正15年以降は、この北上川に映し出される銀河を数多く見たであろうと推測される。


区切りライン


賢治氏が、どんな時期に、いずれの場所で、北上川に沿って映し出される水上の銀河を見たのかは定かではない。
あくまで、推測であるが故、違う場所ということも十分考えられるが、下の畑を除いた上記3箇所のうちのいずれかの場所という可能性は、案外高いように感じる。

月がなければ、川面へは、綺麗な銀河が映し出されたであろうし、川下に月が位置する状態で、これを眺めたのであれば、川下は明るく、まるで、駅の停車場のようで、上流に上っていくに従い、徐々に銀河が鮮明に映し出されるその姿は、まさに、停車場から発車した汽車が走るには、絶好の場所であったに違いない。


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