ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第一話四章 銀河軽便鉄道 (キーワード)

日野熊蔵氏が単独で60mほど、動力飛行機を飛ばしたのが、日本最初の飛行とされているが、これは、明治43年、賢治氏が中学2年生のときのこと。
丁度、ハレー彗星が出現し、賢治氏が初めて岩手山に登った年でもあった。
それから3年後の大正2年、第一次世界大戦が勃発している。

まだ、実物すら見たこともなかったであろうが、人工物が空を飛ぶという知識は、この時、すでに持ち合わせていたと推測できる。
では、何をきっかけに、軽便鉄道が空を飛ぶと考えついたのであろうか。


冬と銀河ステーション

あゝ Josef Pasternackの指揮する
この冬の銀河輕便鐡道は
幾重のあえかな氷をくぐり
(でんしんばしらの赤い碍子と松の森)
にせものの金のメタルをぶらさげて
茶いろの瞳をりんと張り
つめたく青らむ天椀の下

「風景とオルゴール(春と修羅)より



九.ジョバンニの切符

みんなもじっと河を見ていました。誰も一言も物を云う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。
下流の方の川はば一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
けれどもみんなはまだ、どこかの波の間から、
「ぼくずいぶん泳いだぞ。」と云いながらカムパネルラが出て来るか或いはカムパネルラがどこかの人の知らない洲にでも着いて立っていて誰かの来るのを待っているかというような気がして仕方ないらしいのでした。

「銀河鉄道の夜」より



「春と修羅」の「銀河ステーション」は、大正12年12月の作品である。
一方、上記「ジョバンニの切符」の部分は、最終形で追加されたものである。
「銀河鉄道の夜」の成立は、大正13年とされているものの、最近の筆跡の鑑定などがら、これを大正11年とする説もある。
いずれにせよ、「春の修羅」の完成、ないし、「銀河鉄道の夜」の成立時期である大正11〜13年以前には、すでに銀河を軽便鉄道が走るという構想は、完成されていたようだ。

最終形に付け加えられた「下流の方の川はば一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。」という部分が、この全ての鍵を握っているのである。


第一話三章へ戻ります  コンテツメニューへ  第一話五章へ進みます


indexページへ戻ります トップページへ戻る  ページ最上部へスクロールします ページのトップへ