下記のものは、「新生盛岡市地図と案内」( 昭和22年刊行)に、当時、丘であったであろう場所を示してみたものである。
これは、物語との関連性から挙げたところではないが、いずれの場所も、賢治氏が「天気輪の丘」として設定してもおかしくない要素を含んでいるのである。
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1.狐森
2.北山
3.千人供養 (#3:愛宕山)
4.盛岡城跡 |
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5.山王山
6.天満宮
7.東新庄
(中央の赤い囲みは「徳玄寺」) |
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更に、下記のものは、「盛岡市外鳥瞰図」(昭和3年刊行)のものに、同場所を示してみたものであるが、残念ながら、「岩手県の百年」の表装となっているため、上記番号全てが示せないものの、ある程度の標高は把握できる。
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これを比較しながら、物語の本文と対比させれば、ある程度の推測がつきそうなものなのであるが、実は、これが更なる困難性へとつながってしまうのだ。
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川のうしろは、ゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北大熊星の下に、ぼんやりふだんより低く通って見えました。(最初稿)
牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。(最終稿) |
これは、単に「川」が「牧場」に置き換わっているだけなのであるが、このことから以下のことが考えられるのである。
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1.最初稿において、川だったところが埋立てられて消滅していた。
2.最初稿において、川だったところが埋立てられて消滅し、尚且つ牧場へと変わっていた。
3.最初稿から最終稿まで川はあったが、牧場ができていたため、川ではなく、牧場という表現へと変更した。
4.天気輪の丘へと至るジョバンニの道筋が変更になった。
5.天気輪の丘の舞台となった丘そのものを、他の場所へと変更した。
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これを一つずつ検証していくことは、不可能といわざるを得ない。
更に、このことに追い討ちをかけるかの如く、ここに登場する「牧場」が、丘の場所の推定を困難にしているのである。
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