盛岡市というと、駅前(夕顔瀬橋〜開運橋)の方が賑やかな気がするのであるが、明治初期には、中津川を挟んだ反対側の方が開けており、北上川を挟んだ駅前近は、ほとんど開発されていない様が伺える。
上記地図の城跡左側(地図真ん中)に位置していていたのが、「外山牧場獣医学舎」であり、更に、昭和4年に移転した後、街が再開発されている。
つまり、賢治氏の言うとこの「町はずれ」とは、現代の地図から想像する北山等の市街地ではなく、盛岡駅前をも含んでいたことになる。
当時、現代のような犬や猫といったペットというのは殆どなく、これは、東北地方での冷害等による当時の悲惨な農民の生活からも納得でき、獣医科に居た動物は、馬と牛が主体であった。
この獣医科を賢治氏が牛舎として想定したとしても、何ら不思議な場所ではないのである。
ただし、ここについては、「ポプラの木」がどうかという問題が残っているのだが、更に、もう一箇所、牛乳屋として候補に上げられる場所があるため、次章では、そこを取り上げてみることとする。
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