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第二話二十七章 農学校
盛岡市内にあった外山牧場とはどのようなところであろうか。
以下は、その「外山牧場獣医学舎」開設当初の沿革と、地図に場所を示したものである。

明治12年 8月
南岩手郡藪川村外山牧場内に獣医学舎創設
明治21年 4月
岩手県農事講習所創設
明治32年 4月
岩手県農事講習所と獣医学校と合併して岩手県農学校と改称
明治34年 1月
養蚕科を新設
明治34年 6月
岩手県立農学校と改称
大正12年 4月
岩手県立盛岡農学校と改称
昭和 4年 4月
本宮村大字向中野西門に川久保校舎落成移転

岩手県立盛岡第四高等学校」沿革より


盛岡市街要図 盛岡市街府瞰図絵
「新生盛岡市地図と案内」
(昭和22年)
「盛岡市街府瞰図絵」
(大正9年)


盛岡市というと、駅前(夕顔瀬橋〜開運橋)の方が賑やかな気がするのであるが、明治初期には、中津川を挟んだ反対側の方が開けており、北上川を挟んだ駅前近は、ほとんど開発されていない様が伺える。
上記地図の城跡左側(地図真ん中)に位置していていたのが、「外山牧場獣医学舎」であり、更に、昭和4年に移転した後、街が再開発されている。

つまり、賢治氏の言うとこの「町はずれ」とは、現代の地図から想像する北山等の市街地ではなく、盛岡駅前をも含んでいたことになる。

当時、現代のような犬や猫といったペットというのは殆どなく、これは、東北地方での冷害等による当時の悲惨な農民の生活からも納得でき、獣医科に居た動物は、馬と牛が主体であった。
この獣医科を賢治氏が牛舎として想定したとしても、何ら不思議な場所ではないのである。

ただし、ここについては、「ポプラの木」がどうかという問題が残っているのだが、更に、もう一箇所、牛乳屋として候補に上げられる場所があるため、次章では、そこを取り上げてみることとする。


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