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第二話二十六章 牛乳屋と牧場

この物語には「牛乳屋」と「牧場」が登場する。
最初稿と最終稿を読み比べていると、どちらも、この二つは同一場所であるように感じるのであるが。。。

1.牛乳屋の謎

この当時、盛岡市内で牛乳は売られていたのであろうか。
小岩井農場は、小野義真(日本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助氏(三菱社社長)、井上勝氏(鉄道庁長官)の3氏が明治24年に創業したものである。
故に、3氏の頭文字がこの農場(牧場)の名前の由来となっている。
明治32年、岩崎彌之助氏が農場を継承して場主となり、この年、盛岡で牛乳の販売を開始している。
盛岡タイムス」(いわて鉄道ものがたり84)によると、この牛乳を販売していたのは「谷口商店」というところである。
今までの地図を元に、この商店を探してはみたものの、地図には記されていない。
しかし、この物語に登場する「牛乳屋」には、牛舎がある。
然るに、「谷口商店」では、わざわざ小岩井の農場から運搬してきた牛乳を販売していたであろうことから、賢治氏が「牛乳屋」としたところは、「谷口商店」ではないということになる。
また、「谷口商店」は「小岩井農場」の特約店であったことから、この当時、盛岡市のあちこちで牛乳が市販されており、複数の販売店が存在したということは考えにくい。
では、賢治氏は、どこを牛乳屋、あるいは牧場として、この物語を構成したのであろうか。

2.牧場の謎

北上川を越えた反対側に「岩手牧場」があり、これについては、第ニ話五章で触れたとおりなのであるが、更に、この近辺には、当時、盛岡刑務所があった。
最初稿では、かなり詳細にジョバンニの心境が綴られており、幼いジョバンニが何も考えずに、この傍を通って「岩手牧場」へと向かった可能性はないであろう。
では、この当時、他に、牧場は存在したのであろうか。
牧場というと、牛を連想してしまうし、この物語の中の牧場にも牛舎は登場している。
小岩井農場の開設に続き、岩手県下でも、次々と7つの牧場が開設したが、皆、盛岡市内ではなく、岩手山麓などである。
しかし、南部藩の頃より、岩手県下では馬の育成が盛んであり、「岩手牧場」のように、馬に関するところは、数多く存在していた。


馬を主体とする牧場については、丘を検証する際に後述するが、この当時、盛岡市内に牛舎、あるいは、牛に関連しているところが2ヶ所あったのである。

その第一は、大正12年に改称された「岩手県立盛岡農学校」であり、改称以前は「外山牧場獣医学舎」と呼ばれ、明治12年に設立されたところである。

実は、この学校の沿革こそが、「ジョバンニの軌跡」「天気輪の丘」を解明する全てのキーだったのである。


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