ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第ニ話五章 もう一つの盛岡市2
相違点については、第二話四章で対比させてみたが、明らかに天気輪のある丘の場所は違っている。
最初稿については、親友であった藤原健次郎氏へのレクイエム的なものであったが、妹のトシ氏の死によって、この物語は、トシ氏への傾斜の強いレクイエムへと変遷している。
このため、賢治氏は、現界から四次空間への橋渡しとなる舞台である丘を変え、それに伴い、丘の表現も加筆修正されたものであるという推測が成り立つのである。

以下のイラストは、第二章三話で用いたものを、多少広域にしたものであるが、ここで、賢治氏の盛岡市内での住居を整理した上で、地図に表示してみることにする。


明治42年4月 盛岡第一高等学校入学 自彊寮に入る
大正2年3月 中学5年 清養院(曹洞宗)に下宿
大正3年3月〜 中学卒業し、家業手伝い 実家
大正4年1月 盛岡高等農林学校入学 教浄寺(時宗)に下宿
大正6年4月 盛岡中学に入学した弟清六と盛岡市内に下宿 下の橋


盛岡市内イラスト図2


最初稿での「天気輪の丘」
ジョバンニは、北の街はずれに向かい、小さな川にかかる橋を渡って、丘へと向かう。
盛岡市内には、北上川の支流の一つである中津川が流れている。
(この河川の上流には網取ダムがあるが、完成したのは昭和57年である。)

大正6年4月、盛岡中学に入学した弟の清六氏と盛岡市内に下宿したのは、「下の橋」の側である。
この「下の橋」近辺の中津川は、大きく蛇行しており、「そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって」という賢治氏の表現と見事に一致する。
そして、この「下の橋」という地名の中津川に架かる橋が「下の橋」で、盛岡駅前(街)のすぐ近くである上、ここを渡ると、「天満宮」へと至る小高い丘に到達できるのである。
つまり、初稿での「天気輪の丘」は「天満宮」のある丘であるという推測が成り立つのである。


最終稿での「天気輪の丘」
最終稿においては、「小さな川」に関する記述が全て削除され、「向うの橋へ行く方の雑貨店の前」という表現のみが残されている。
しかも、「川のうしろはゆるい丘になって」が「牧場のうしろはゆるい丘になって」というように、舞台そのものが変えられている。

最終稿においては、高橋じゅん氏が仮説されたように、盛岡駅近辺にある「北山」が舞台という説にも、かなりの信憑性が出てくる。
「向うの橋へ行く方の雑貨店の前」という表現は、北上川に架かる「夕顔瀬橋」ではないかと推測される。
北山の北方には盛岡高松公園があり、ここには高松の池がある。
信直公(南部26代藩主)が盛岡城築城を開始した折、湿地帯の治水目的のために作った上田堤が元で、その中で最も大きかった中堤が現在の池となっている。
明治39年、日露戦争の勝利を記念し、吉野桜が千本植栽されている。
当然、賢治氏は、この光景を目にしたであろう。
こうなると、葉桜が、物語の中に登場してもおかしくはないと思うのであるが、当時、北山の頂に上がり、桜並木が見えたかどうかは定かでない。
しかし、この池には河川がないことから、最初稿における場所ではない、あるいは、そうであった場合は、当時の河川が現在埋め立てられてしまっているかのどちらかであろう。
また、東北本線を挟んだ反対側に、明治29年に開設された「岩手牧場」がある。
当時は「種馬育成所」であり、牛舎がその当時存在したのかどうかは、未調査項目であるが、この牧場へ行くためには、カンパネルラが溺れることになる川を渡らなければならず、この部分がまったく物語の中に登場していないという点からすると、「岩手牧場」は牛乳屋ではないという結論に達する。
むしろ、賢治氏が牛乳屋と表現したように、牧場とはほど遠い、規模の小さな数匹の牛を飼っていたところと解釈すべきであろう。

区切りライン

いずれにせよ、この場所をある程度確定づけるためには、当時の地図や写真を用いた上で検証しなければ、結論は見いだせないというのが現状であるが、物語自体が未完成であることからも、更に、さまざまな表現が後ほど追加されたという可能性もある。
特に、自宅がどこにあたるかという点については、5箇所のいずれかと推測できるものの、これを絞り込めるだけの根拠は見いだせていない。
また、最初稿から最終稿への変遷に伴い、「天気輪の丘」のみ、「小岩井農場」へと舞台を移したという可能性も決してゼロではない。


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