この物語は、大正7年8月6日の星空を再現したものであると推測したのだが、当日の天候はどうであったのだろうか。
近年の天気であれば、気象庁発表等のデータがあるが、当時の盛岡管区の日毎の記録は公表されていない。
そこで、これを「岩手日報」から拾い上げてみる。
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大正7年8月6日
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大正7年8月7日
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8月6日は「北東の風晴れ後曇」、8月7日は「北東の風曇時々雨」となっている。
しかし、当時の新聞では、地域毎の天気予報は掲載されておらず、予報欄の下には「宮古」と記載されている。
宮古は海沿いに位置し、その主要部と盛岡とでは約90km離れている。
従って、山間部に近い盛岡と宮古では、天候が異なることは十分考えられるのだが、6日の晩が広域的な雨でなかったことだけは確かなようである。
また、8月7日の「無題編記」には以下のようなことが書かれている。
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月餘に互る連日の旱天続きで河川、沼に至るまで渇水し農家は灌漑用水の欠乏に苦しみ、青色吐息の態とあるが、一方汽車の原動力たる水の欠乏は牽引力の不足となり、貰水でやつと動かして居る處もあるとか。
「岩手日報」 (大正18年8月7日)より引用
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このような新聞の表現から推測すると、当日、雲ひとつない星空であったかどうかは定かでないものの、北上川に映し出された銀河を賢治氏が眺めたという可能性は、やはりあると考えられる。
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