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第二話三十八章 丘が動いた?



沈んだ月夜の楊の木の梢に
二つの星が逆さまにかかる
(昴がそらでさう云ってゐる)
オリオンの幻怪と青い電燈
また農婦のよろこびの
たくましも赤い頬
風は吹く吹く、松は一本立ち
山を下る電車の奔り
もし車の外に立ったらはねとばされる
山へ行って木をきったものは
どうしても歸るときは肩身がせまい
(ああもろもろの徳は善逝から来て
そしてスガタにいたるのです)
腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ
この籠で今朝鶏を持って行ったのに
それが賣れてこんどは持って戻らないのか
そのまっ青な夜のそば畑のうつくしさ
電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか
市民諸君よ
おおきやうだい、これはおまへの感情だな
市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな
東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ
見たまへこの電車だって
軌道から青い火花をあげ
もう蝎かドラコかもわからず
一心に走ってゐるのだ
(豆ばたけのその喪神のあざやかさ)
どうしてもこの貨物車の壁はあぶない
わたくしが壁といっしょにここらあたりで
投げだされて死ぬことはあり得過ぎる
金をもってゐるひとは金があてにならない
からだの丈夫なひとはごろっとやられる
あたまのいいものはあたまが弱い
あてにするものはみんなあてにならない
たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で
そしてそれらもろもろ徳性は
善逝から来て善逝に至る

「春と修羅」(大正12年9月16日)より



大正12年9月1日、東京を大地震が襲った。
いわゆる「関東大震災」である。
賢治氏も、この震災前に上京していたこともあり、知人宛に見舞いの手紙を出している。
そして、氏の初版本である「春と修羅」にも、地震のことは書き記している。

これが、「天気輪の丘」を他の場所へと動かさなければならない大きな要因だったのである。

最初稿における銀河の世界は、ある意味において、幻燈的に描かれており、カンパネルラは死んでいない。
これが最終稿では、カンパンネルラの現実の死という形で、この物語は締めくくられる。

賢治氏も何度となく訪れた「盛岡地方気象台」が開設したのは、偶然、あるいは、神・仏が仕組んだことか、大正12年9月1日、丁度、関東大震災が発生した日だったのである。

人々の命や生活を冷害などの自然災害から守るために開設されたはずの気象台・・・。
幻影的に、この物語を閉じるのであれば、これで良かったのかもしれない。
しかし、カンパネルラの死とつながる場所として、大勢の方が亡くなったこの日に由来する場所では、死そのものが薄れてしまうと考えたのであろうか。
このために、牛乳屋を他の場所へ移す際、丘も移動させたのだ。
あるいは、丘を最初に動かし、それに伴って、牛乳屋も移したのかもしれない。

これが、私のたどり着いた結論である。


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