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第二話九章 「盛岡城」
賢治氏が歩いたであろう盛岡市を考察するにあたって、現在の地図を参照としても先はあまり見えてこない。
そこで、盛岡市の古地図(複製品)を元に、再考察してみる。

盛岡城拡大図(江戸時代)

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これは、藩政諸士屋敷地井建家図面書上などを元に、昭和57年6月に刊行された 「盛岡城下町絵図」より一部を掲載したもので、北上川をはさんだ反対側は、丁度、現在の盛岡駅にあたる。
盛岡城は、豊臣秀吉の時代、南部氏二十六代の信直公により城築が開始され、以後、明治維新まで、北上川の船運を活用し栄えてきた。
このため、城の周りは北上川より引き込まれた堀とともに、多くの水路があった。
明治維新の際、南部盛岡藩は、奥羽列藩同盟に加わって、秋田戦に敗れたため薩長軍に降伏したことにより、政府の兵部省所轄となり、城は、明治7年に石垣を残して全て取り壊された。


盛岡城跡拡大図(明治43年)

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この絵図は、明治43年に刊行された「盛岡市街及附近實測図」の城跡近辺のものである。
明治39年、城跡は「岩手公園」となったが、城の周りにあった武家屋敷や船宿は無くなり、上部掲載の盛岡城のものと比較てみると、堀は殆ど埋め立てられて、水田へと様変わりして上、多くの学校が誘致されている様子が伺える。
更に、下記は大正9年刊行の「盛岡市街府瞰図絵」によるものである。

盛岡城跡拡大図(大正9年)


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「盛岡市街及附近實測図」と比較し、わすが10年ほどの間に、北上川の洲が変化している様子が伺える。
また、明治43年には、城跡を通っている水田用の用水路が、大正9年には、小さな河川へと変わってる様子も描かれている。
明治維新後の盛岡市は、明治・大正・昭和初期にかけてと、城跡だけでなく、街そのものが大きく様変わりしていたのである。


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