頂の天気輪の柱の下 |
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。 |
北十字 |
思はず二人もまっすぐに立ちあがりました。カムパネルラの頬は、まるで熟した苹果のあかしのやうにうつくしくかゞやいて見えました。 |
鷲の停車場の手前 |
「何だか苹果の匂がする。僕いま苹果のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。
「ほんたうに苹果の匂だよ。それから野茨の匂もする。」ジョバンニもそこらを見ましたがやっぱりそれは窓からでも入って来るらしいのでした。 |
燈台看守 |
「いかゞですか。かういふ苹果はおはじめてでせう。」向ふの席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに両手で膝の上にかゝえてゐました。
「おや、どっから来たのですか。立派ですねえ。こゝらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんたうにびっくりしたらしく燈台看守の両手にかゝへられた一もりの苹果を眼を細くしたり首をまげたりしながらわれを忘れてながめてゐました。 |
燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つづつ睡ってゐる姉弟の膝にそっと置きました。
「どうもありがたう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は。」
青年はつくづく見ながら云ひました。「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいゝものができるやうな約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さへ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のやうに殻もないし十倍も大きくて匂もいゝのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかほりになって毛あなからちらけてしまふのです。」 |
「その苹果がそこにあります。このおぢさんにいたゞいたのですよ。」青年が云ひました。「ありがとうおぢさん。おや、かほるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやらう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん。」姉はわらって眼をさましまぶしさうに両手を眼にあてゝそれから苹果を見ました。男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと 灰いろに光って蒸発してしまふのでした。
二人はりんごを大切にポケットにしまひました。 |
コロラドの高原 |
向ふではあの一ばんの姉が小さな妹を自分の胸によりかゝらせて睡らせながら黒い瞳をうっとりと遠くへ投げて何を見るでもなしに考へ込んでゐるのでしたしカムパネルラはまださびしさうにひとり口笛を吹き、二番目の女の子はまるで絹で包んだ苹果のやうな顔いろをしてジョバンニの見る方を見てゐるのでした。突然たうもろこしがなくなって巨きな黒い野原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地平線のはてから湧きそのまっ黒な野原のなかを一人のインデアンが白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓に矢を番えて一目散に汽車を追って来るのでした。「あら、インデアンですよ。インデアンですよ。おねえさまごらんなさい。」黒服の青年も眼をさましました。 |
南十字 |
そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるのが見えました。 |