八、鳥を捕る人
「そいつはな、雑作ない。さぎというものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼおっとできるもんですからね、そして始終川へ帰りますからね、川原で待っていて、鷺がみんな、脚をこういう風にして下りてくるとこを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押えちまうんです。するともう鷺は、かたまって安心して死んじまいます。あとはもう、わかり切ってまさあ。押し葉にするだけです。」
|
(中略)
すると鷺は、蛍のやうに、袋の中でしばらく、青くぺかぺか光ったり消えたりしてゐましたが、おしまひたうたう、みんなぼんやり白くなって、眼をつぶるのでした。ところが、つかまへられる鳥よりは、つかまへられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見てゐると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるやうに、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のやうに、砂や砂利の上にひろがり、しばらくは鳥の形が、砂についてゐるのでしたが、それも二三度明るくなったり暗くなったりしてゐるうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまふのでした。
「銀河鉄道の夜」より |
|
「雁」と違い、「鷺」は、天の川の砂が固まってできるもので、鳥捕りに捕まらない多くの「鷺」までもが、再び天の川へ戻るのだという。
これは、いったい何を表しているのであろうか。
「雁」が人の魂だとして、それは、人智の及ぼすものではない。
仏ないし神のみが知りえるところなのであろう。
そうなると、この天の川と銀河の空間を何度も行き来している「鷺」は、人間の輪廻転生を表現したものであるという推測が成り立つのである。
|
「わたしらの先祖やなんか、鳥がはじめて、天から降って来たときは、どいつもこいつも、みないち様に白でした。」 (中略)
ところがとんびはだんだんいい気になりました。金もできたし気ぐらいもひどく高くなって来て、おれこそ鳥の仲間では第一等の功労者というような顔をして、なかなか仕事もしなくなりました。尤も自分は青と黄いろで、とても立派な縞に染めて大威張りでした。 (中略)
そして鷺とはくちょうは、染めないままで残りました。 「林の底」より |
これは、大正12年(推定)に書かれた「林の底」からの抜粋部分である。
この物語の中で、色は欲として表現されている。
つまり、染めないまま最後まで残った「鷺」と「白鳥」の魂は、欲の無い綺麗な無垢なものということになる。
人間の輪廻転生を表現するには、星座に登場しない「鷺」は、適役であったのであろう。
「天の川の水あかりに、十日もつるして置くかね、そうでなけぁ、砂に三四日うずめなけぁいけないんだ。そうすると、水銀がみんな蒸発して、喰べられるようになるよ。」という表現での水銀は、きっと、人間の業なのであろう。
この業が消え、再び綺麗な魂となり、蘇る。
そして、また現世を旅して、宇宙の中へと帰ってゆく。
では、何故、これらのものを、お菓子という形に変えたといえ、わざわざ口にする必要があったのであろうか。
|
|