「牛乳屋」と「2回目のザリネの接点である四つ角」については、前章のとおり、ある程度の結論を導き出すことができた。
しかし、これは、最終稿による場所である。
盛岡競馬場は、明治36年、当時の騎兵監であった閑院宮載仁親王によって「黄金競馬場」と名づけられ開設された。
この競馬場は、昭和7年に移転工事が始まり、翌年には、現在の緑が丘1丁目に移転を完了している。
つまり、「ポラーノの広場」に描かれた、移転に伴う「競馬場を植物園に拵え直す」というのは、事実であったことになる。
そして、賢治氏が、この物語を最初稿から最終稿へと変遷させていた期間も、ずっと存続していたことになる。
最初稿において登場していた牧場が、最終稿において移転ということにより、物語自体も変更されていたということであれば納得できるところなのであるが、実際は反対である。
では、最初稿において「川のうしろは、ゆるい丘」であったものが、何故、「牧場のうしろはゆるい丘」に変わってしまったのであろうか。
その謎を解く鍵は、「そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって、細い鉄の欄干のつゐた橋がかかっていました。」という最初稿にある。
この当時、盛岡市内には多くの水路が存在したが、中津川を除き、全て、田んぼへと水を引くため、あるいは生活に伴う用水路であった。
用水路には、川原はない。
つまり、市内の再開発などにより埋立てられたため、川を牧場に置き換えたものではないということである。
そこで、消去法により、この川原の見える小さな川は「中津川」ということになる。
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