ページトップへのバック用アイコンTOP > 箱庭の賢治氏
第二話四十五章 モーリオ市

ジョバンニは、いつか町はずれのポプラの木が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮んでいるところに来ていました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云いましたら、家の中はしぃんとして誰も居たようではありませんでした。
(銀河鉄道乗車)
ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思いだされたのです。どんどん黒い松の林の中を通ってそれからほの白い牧場の柵をまわってさっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かの樽を二つ乗っけて置いてありました。
「今晩は、」ジョバンニは叫びました。
「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「何のご用ですか。」
「今日牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」
「あ済みませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳瓶をもって来てジョバンニに渡しながらまた云いました。
「ほんとうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑んでしまいましてね……」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます。」
「ええ、どうも済みませんでした。」
「いいえ。」
ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。


如何であろうか。
いつの間にか、ここでは、「牛乳屋」と「牧場」が同一化されているのである。
これを、この物語は未完故と片付けてしまえば簡単なのであるが、今までの考察から、かなり詳細に構成されており、未完による不一致とは考えられない。


盛岡農林高等学校盛岡農林高等学校

「盛岡市街案内図」(昭和3年刊行)

これは、当時の「盛岡農林高等学校」から「競馬場」にかけての詳細を示してみたものである。
当時、校舎の裏手の広大な敷地には、実験農場、果樹園、林学苗園等があり、その奥に田んぼを介して、競馬場がある。
ここで、第二話三十章で取り上げた「ポラーノの広場」と、この部分をオーバーラップしていただきたい。

わたくしはすぐ宿直という名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもって、その番小屋にひとり住むことになりました。わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきいをつけて一疋の山羊を飼いました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股にわたって市の役所へ出て行くのでした。

この物語が書かれたのは、昭和8年(推定)、そして、この物語の最終稿も同じ時期である。
賢治氏は、競馬場の跡地を「モリーオ市では競馬場を植物園に拵(こしら)え直すというので」と表現している。
残念ながら賢治氏の希望通りとはいかず、この跡地は今も当時のままの遊休地である。(現在は、2008年4月のオープンを目指し、複合福祉施設の整備が開始されたようである。)

ここには農業地、林業地があり、更に牧場もあれば、賢治氏の理想とする場所が誕生していたことになる。
つまり、ここは、ある意味での「ポラーノの広場」でもあり、「ジョバンニの街の牧場」でもあったということである。
そして、この壮大な構想は、まさしく「小岩井農場」を連想させる。




高松の池隣の旧盛岡競馬場跡地
395の落書き帳」(2005-12-7)より


「家畜病院である牛乳屋」と「競馬場の跡地である牧場」。
これは、同一の場所として、描かれていたのではないだろうか。
「ポラーノの広場」では、ミルクをとるために、主人公が競馬場跡地の番小屋で山羊を飼う。
そして、ある日、この山羊が逃げ出し大騒ぎとなる。
「銀河鉄道の夜」では、子牛が逃げ出し、ミルクを飲んでしまう。
これは、まったく同じ作りであったのだ。
ただし、この軌跡を地図に示そうとすると、また、不可解な問題が浮上してくるのである。


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