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第二話四十七章 夕顔瀬橋
牧場を後にしたジョバンニはやがて橋へとたどり着くことになり、その道筋については、第二話四十四章で触れたところであるが、実は、ここにも一つの疑問が残っているのである。


九、ジョバンニの切符

ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで包むようにもって牧場の柵を出ました。
そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になってその右手の方通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかかった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七八人ぐらいずつ集って橋の方を見ながら何かひそひそ談しているのです。それから橋の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。

「銀河鉄道の夜」より



下記のものは、「夕顔瀬橋」「開運橋」の様子を地図から示しみたものである。


夕顔瀬橋 開運橋
「夕顔瀬橋」 「開運橋」
「盛岡市街府瞰図絵」(大正9年)

夕顔瀬橋 開運橋
「夕顔瀬橋」 「開運橋」
「盛岡市外鳥瞰図」(昭和3年)

通常、「やぐら(櫓)」というと、木ないし鉄骨を組んだものを指す。
これに従うと、「櫓」は「開運橋」のことを指していると言えるであろう。
ただし、「盛岡市街府瞰図絵」に詳細は描かれていないものの、「盛岡市外鳥瞰図」には、「夕顔瀬橋」の真ん中に2基の石灯籠が描かれている。


「夕顔瀬橋」

前九年の役(源頼義の奥州赴任(1051)から安倍氏滅亡(1062)まで)の際、盛岡市の厨川・嫗戸両柵に篭城した安倍貞任は、瓜に目鼻を描いた藁人形に甲冑を着せて川原に並べるという作戦に出たが、柵は焼き払われ、藁人形は北上川に投げ込まれた。
その時、顔を描かれた無数の瓜が川面を漂ったという。
「夕顔瓜 」と書き「うり(瓜)」と読む。
このことに因んで命名されたのが「夕顔瀬橋」である。
1865年に発生した盛岡大火の際、難を逃れた材木町の有志が「岩鷲山御神燈」と呼ばれる高さ約3メートルの石灯籠一対を奉納し、橋の上に安置された。
昭和15年に橋を架け替える際、石灯籠は移動させられてしまったが、近年になり、これをに戻そうという運動が起こり、当時と同じ位置に、小型の石灯籠が再び安置された。
尚、最初に奉納された石灯籠は、重さが一基8トンもあったため、橋の耐久性等の問題からミニチュア版の安置になったという。

「開運橋」

明治23年、当時知事であった石井省一郎氏が盛岡駅開業の際、私財を投げ打って完成させた橋である。
このため、当初は1回1銭の通行料を払って人々は渡っていたが、翌年に盛岡市がこの橋を買収した。
この橋には「二度泣き橋」という別名があり、盛岡市に赴任してきた人々がこの橋を渡る際、とんでもないところに飛ばされたものだと泣くものの、この地の人情や自然の豊かさに感銘し、転勤する際には、ここから離れたくないと再び泣くことから、こう呼ばれている。
尚、水道工事が著しく遅れていた盛岡市では昭和8年に水道事業創設工事が本格的に始まったが、北上川の下に水道管を通すことができず、この開運橋に水道管を渡し、これにより、水道が普及していった



夕顔瀬橋
(今も瀬が残り、真ん中には石灯篭が安置されています。)
395の落書き帳」(2006-1-26)より

如何であろうか。
賢治氏は、単に、「烏瓜の燈火」を流したのではない。ちゃんと、この橋の名前の由来を知っていたのである。
カンパネルラの儚い死は、前九年の役の際に川面を流れた瓜に通じるものもある。
そして、別れを惜しむかのように、「開運橋」へと向かって流れていくのである。
やはり、この物語には、ここでも二面性が存在していたのである。

次章では、ここで登場した「やぐら」を考察してみる。


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