※ 自宅 (#1)
檜の真っ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。
坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立ってゐました。
大股にその街燈の下を通り過ぎたとき、いきなり一人の顔の赤い、新しいえりの尖ったシャツを着た小さな子が、電燈の向ふ側の暗い小路から出てきて、ひらっとジョバンニとすれちがひました。(#2)
ジョバンニは、せはしくいろいろのことを考へながら、さまざまな灯や木の枝で、きれいに飾られた町を通って行きました。時計屋の店には明るくネオン燈がついて、一秒ごとに石でこさへたふくろふの赤い眼が、くるっくるっとうごいたり、、眩ゆいプラチナや黄金の鎖だの、いろいろな宝石のはひった指環だのが、海のやうな色をした厚いガラスの盤に載ってゆっくり循ったり、また向ふ側から、銅のの人馬がゆっくりこっちへまはって来たりするのでした。そのまん中に円い黒い正座早見が青いアスパラガスの葉で飾ってありました。(#3)
ジョバンニはきゅうくつな上着の肩を気にしながら、それでも胸を張って大きく手を振って、町を通って生きました。そのケンタウル祭の夜の町のきれいなことは、空気は澄み切って、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほん
たうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした。(#4)
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ジョバンニは、いつか待ちはづれのポプラの気が幾本も幾本も、高く星ぞらに浮かんでゐるところに来てゐました。その牛乳屋の黒い門を入り、牛の匂のするうすくらい台所の前に立って、ジョバンニは帽子をぬいで「今晩は、」と云ひましたら、家の中はしぃんとして誰も居たやうではありませんでした。(#5)
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ジョバンニは、せはしくこんなことを考へながら、さっき来た町かどを、まがらうとしましたら、向ふの雑貨店の前で、黒い影やぼんやり白いシャツが入り乱れて、六七人の生徒らが、口笛を吹いたり笑ったりして、めいめい烏瓜の燈火を持ってやって来るのを見ました。(#6)
町かどを曲るとき、ふりかえって見ましたら、ザネリがやはりふりかへって見てゐました。そしてカムパネルラもまた、高く口笛を吹いて行ってしまったのでした。
ジョバンニが面白くてかけるのだと思ってわあいと叫びました。どんどんジョバンニは走りました。
けれどもジョバンニは、まっすぐに坂をのぼって、あの檜の中のおっかさんの家へは帰らないで、ちゃうどその北の方の、 町はづれへ走って行ったのです。そこには、河原のぼうっと白く見える、小さな川があって、細い鉄の欄干のつゐた橋がかかっていました。(#7)
ジョバンニは橋の上でとまって、ちょっとの間、せはしい息できれぎれに口笛を吹きながら泣き出したいのをごまかして立ってゐましたが、俄かにまたちからいっぱい走りだしました。
川のうしろは、ゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北大熊星の下に、ぼんやりふだんより低く通って見えました。
ジョバンニは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼって行きました。
そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亙ってゐるのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねさうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも香りだしたというやうに先、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。(#8)
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